この4月から私は、アレクサンダー・テクニークの教師資格取得のための大事なステージとして『アレクサンダー・テクニークを教える』ということを本格的に学ぶ期間にありました。
この『教える』ステージは、
教師として生徒の前に立つ《在り方》が生徒さんの学びに大きく影響を及ぼすことから、始めのステージの時より《自分自身がアレクサンダー・テクニークを使って動くことを体現し、その上で生徒さんの望むことにアレクサンダー・テクニークを交えてどのように教えるか》を深く学びます。
なのですが、、、
「いやいや私がアレクサンダーを教えるなんてできる気がしない…だって今私が教わってるアレクサンダーの先生方のようにならないとでしょ?いや〜私なんてまだまだ知識も経験も少ないし無理やって、、いや、やりたい気持ちはある!でも自信ないし…」
と、このように最初ずーっとうじうじして、
「自信がありません」表明をしていました。
自信がない
それでも資格取得に近づくためには、このハードルを越えて進んでいかなくてはならない。
自信がないなんて言うていられなくて、
「どうにかして前へ踏み出したい」と、
いろんな先生や先輩などに相談しながら「教える」というアクティビティの経験を積み重ねていくうちに、
ある時ふと思いました。
「自信とか、関係なくない?ていうか、自信が必要って思うことがそもそも無謀なんじゃない?」と。
自信があろうとなかろうと、やることをやるしかない。
しかも、出来ないことを数えて「まだまだまだまだ。あかんあかんあかんあかん。」なんて言ってたら進みたいのに進めない。
今周りにいるたくさんの素晴らしい先生方だって、始めから『できる人』だった訳ではないし、経験値が違うんだからそもそも比較すること自体が間違いでした。
そうなんじゃないかと薄々分かってはいたものの、何故だか突如腑に落ちて、ブレイクスルー。
おかげで自由になれた気がしました。
「自信」は幻。当てにならない。
「自信」なんてものは湧いたとしても、何かのきっかけで直ぐに消えてなくなってしまうほど儚い、
幻です。
そんな曖昧な「自信」なんていうものを付けようとしたり、自信を理由に「できる」「できない」と判断するのは、、
建設的ではないんじゃないか。
いつだって消えてなくなってしまえるほど儚いものだから、何の頼りにもならないと心底思いました。
頼りにできるのは?
《自分にとって何かハードルの高いものに挑戦しようとした時》、「自信」なんていう曖昧なものを話題に出してしまいますが、もっと確実なものは何か。
例えば「自信がある」と言える状態の時もあると思います。
でもそれは、ただそう言って表現しているだけ。
実態は、
自分にとってちょっと高いハードルを越えるために「何をすれば良いか分かっている」もしくは「何をするか決めている」という、
そんな状態なのだと思うのです。
だから、
《今の自分がこれまで培ってきた出来ることをやるのみ。そしてその上でできる限りで準備をする。その準備に更に必要と思うことをひたすらに吸収し、リハーサルする。》
こう考えた時、「自信のありやなしや」とは違うベクトルで物事を考えられるようになり(もちろん『今まで自分がやってきたことを信頼する』ということが前提になってはいます。その点では「自信」と表現できるのかもしれないけど)、
この想いの元動いた結果、試験も無事にパスし、「アレクサンダー・テクニーク教師(見習い)」へと駒を進められました。
当たり前のように想えるこのプロセスですが、私にとってこれは、とてもとても深い学びの体験となりました😊👐